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2024年 秋季企画展

もっと愉しい!書画の世界

―読んで、見て、味わう詩情―

2024年9月2日(月)~12月20日(金)

休館日/土曜(但し第四土曜日9/28、10/26、11/23は開館)、日曜、祝日
開館時間/午前10時〜午後4時30分(入館は4時まで)
入館料/300円 *障碍者・75歳以上・学生および再来館等割引あり
会場/齋田記念館 展示室

[イベント]学芸員によるギャラリー・トーク
9/27日(金)、10/28(月)、11/29(金)  午後2時~

下村為山筆 柿図  

しもむら いざん   かきず

絹本墨画著色・双幅   
昭和時代(20世紀)  
各128.5×42.6㎝

 下村為山(1865~1949)は、伊予(今の愛媛県)松山藩士の家に生まれ、上京後はじめ洋画を学ぶも、正岡子規と同郷の誼で俳句に親しみ、やがて俳画に徹した。俳句は日本固有の詩であり、俳画も日本特有で、日本人の芸術として尊重すべきものと主張。ただ、世間一般の俳画は空虚で慊らないとして、意義深淵なる真の俳画をめざした。また、真の俳味画(大正10年、為山は世間一般の俳画に対して「俳味画」を主張)は、画それ自身が俳句であるといい、印象的に瞬間に眼に感じないものは一切描かないと言う。
 本作の柿に雀の図は、為山が得意とした画題。秋に実が熟れて、重くしなった柿の枝に一羽の雀がとまる。スピード感のある筆致で一枚の葉を一二筆で素早く描き、柿の実は様々に向きを変え、熟れ具合の差を色の違いで適確に現わす。一般的な双幅では一幅ごとにモチーフが独立するが、本作は双幅が一画面として連続する斬新な構図。左幅には冨士を詠んだ自詠の俳句を記して、冨士を描かずとも見る者にその存在を想起させる。その書は、水を多く含ませた筆の先に濃い墨をつけて、書き進むにつれて墨色は薄くなり墨色の変化に富む。中国の北魏の楷書を学んだ為山の筆線は、仮名を書く時も堂々と力強く、漢字と仮名、そして画と書の調和が図られている。

川合玉堂筆 水車

かわい ぎょくどう  すいしゃ

紙本墨画・1幅  
昭和20年代 
36.0×45.1㎝

 川合玉堂(1873~1957)は、愛知に生まれ、京都に出て四条派の画を学び、後に上京して橋本雅邦のもとで狩野派を学んだ。詩情豊かな風景画に秀で、東京美術学校教授を勤めた。昭和19年、太平洋戦争の激化により御岳(現・東京都青梅市)に疎開、昭和20年、牛込若宮町(現・東京都新宿区)の住宅が戦災で焼失し、晩年は御岳で過ごす。偶々、多摩に住んだことに因んで「偶庵」と称し、俳句や和歌に親しみ、自詠の句集や歌集を度々出版。晩年は、本作のように略筆の絵に自詠の和歌を添えた自画讃を、周囲の人に贈ることが多くあったようだ。
 この和歌に詠まれた水車は、御岳の家の近くの多摩川の水を利用したものだろう。秋の朝日を浴びて、水車が回るだけでなく、小屋の軒下に映る水車の影も回って、その光と影の明滅の美しさを詠んでいる。水の清涼感とともに、秋の爽やかな空気に満ち、晩年の玉堂が御岳の穏やかな日々を楽しんでいたことが伝わってくる。
 玉堂の書は、柔らかな曲線と伸びやかな線よりなり、どの字も正面を向いて背筋を伸ばしたようにすっきりと端正である。仮名書家で歌人の尾上柴舟とも親交が厚く、互いに影響を受けることもあっただろう。本作の適確な草書のくずしや、平安朝風の仮名からは、相当な書の鍛錬が窺える。

谷文晁摸写「佐竹本三十六歌仙絵巻」より
「中務」 

たに ぶんちょう  さたけぼんさんじゅうろっかせんえまき  
なかつかさ
(下巻後半:11/25~12/20公開)

紙本著色・2巻  
江戸時代(18~19世紀)  
各31.4×約1200㎝

*順次巻替えを行い、全巻を公開いたします。  
上巻前半:9/1(月)-9/28(土)  
上巻後半:9/30(月)-10/26(土)
下巻前半:10/28(月)-11/23(土)  
下巻後半:11/25(月)-12/20(金)

 佐竹本三十六歌仙絵巻は、画は鎌倉時代の藤原信実筆と伝えられ、詞書は後京極良経筆と伝えられる。秋田藩主佐竹家に伝来したことから佐竹本と呼ばれるが、江戸後期の木村蒹葭堂(1736~1802)の『蒹葭堂雑録』には京都下鴨神社にあったことが記される。その後、佐竹家の所蔵となるも大正6年に売却、大正8年またも売却に遭うが、高額のため買い手がつかず、三十六歌仙と住吉明神の計37の断簡に分割され、各々別々の所有に帰した。
 当館所蔵の摸写本には、住吉明神の紙背に「谷文晁之写 書明忠写也」の書入れがあり、画は谷文晁、書は明忠(詳細不明)の摸写とされる。谷文晁(1763~1840)は、田安徳川家の家臣の家に生まれ、狩野派、南蘋派、南画、大和絵の他、西洋画の技法も学び、八宗兼学と言われた。松平定信に認められ、『集古十種』や『古画類聚』の挿絵を担当した。なお、『古画類聚』には「佐竹氏蔵」と記される歌仙絵が収められていることから、文晁は本作を佐竹氏のもとで摸写したと推測される。本作は、『古画類聚』の歌仙絵に比べて原本に忠実で、着物の紋様まで丹念に描かれ、原本が絵具の剥落や退色のために確認できない色や紋様を今に伝えている。
 佐竹本三十六歌仙絵巻の下巻の最後を飾るのが、中務。平安中期の女流歌人。父は宇多天皇の皇子の中務卿敦慶親王、母は伊勢御息所。夫の源信明との間にかわされた相聞歌が知られ、母も夫も三十六歌仙に選ばれている。朱雀天皇(在位930~946)から円融天皇(在位969~984)の御代に生きた。
 中務の装束はとりわけ色鮮やかで、この写本では若々しい表情に描かれる。和歌は「鶯の声が聞こえてこなければ、雪も消えぬ山里では、どうして春の訪れを知ることができましょうか」の意。鶯のなく春を待ち焦がれる気持ちを詠う。

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