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齋田記念館について

◎齋田記念館

 小田急線世田谷代田駅から隣駅梅ヶ丘にかけての地域は昔、代田村といい武蔵野の色濃く残る純農村地帯でした。代田八幡宮から南へのびる一帯は、小田急線敷設の昭和初年頃は近在に知られた梅林で、環状七号線が開通し、宅地化が進んだ昭和30年代頃まで残っていました。今は交通量も増え、宅地も過密化し、往時の面影を見ることはできませんが、そんな環七通り沿いに、豊かな緑を白壁が囲む一画があります。この白壁の間の石段を上ると、周囲の喧騒がまるで嘘のように、緑豊かな敷地の中に、齋田記念館がひっそりと佇んでいます。

◎齋田家

 この齋田記念館の奥に、約千五百坪の敷地に約百五十坪の建物を有する齋田家があります。その建物は、昭和2年(1927)の震災復興計画によって環状七号線の敷設が決まり、敷地の東側を貫通するため、明治末期に焼失した旧宅の再建計画が立てられ、昭和6年(1931)3月に着工、同9年(1934)3月に落成したものです。当時においては最良の建築資材と技術を用いており、近代の数寄屋造りとして建築学的にも貴重なことから、平成8年(1996)に世田谷区の有形文化財に指定されました。

◎齋田家の歴史

 齋田家は、木曽義仲の老臣の中原兼遠が遠祖と伝えられ、中世には世田谷城主・吉良氏の家臣となり、天正18年(1590)、吉良氏没落後にこの地に土着・帰農し、代田村開発の中心となった「代田七人衆」と呼ばれる旧家の一つです。江戸時代中期以降、開墾によって土地の所有が進んだこともあり、文政8年(1825)、八代平吉の時に、代田村の年寄役から名主となり、以後幕末までこの役を世襲しました。

◎齋田家の文芸

 齋田家からは、江戸時代後期以降、学者や文人を輩出してきました。特に、八代平吉(1773-1852)は、最も優れた学者として知られています。幼年より学問を好み、儒学を叔父の山形藩秋元家の儒官齋田東城に、書を沢田東江に、詩を岡本花亭に学び、東野(とうや)と号して、後に一家をなしました。名主の傍ら、私塾「発蒙塾(はつもうじゅく)」を開き、江戸や近在の村々から彼を慕って入門した弟子たちの教育にもあたりました。
 また、九代萬蔵(1801-1858)は、画に秀で、父と交遊のあった当時の高名な画家・大岡雲峰に学び、雲岱(うんたい)の号を授けられました。特に本草学に興味を持ち、動植物の精密な写生画を描き、谷文晁門下の画家たちとも交流して、先学の博物図譜の精巧な写しも遺しています。
 更に、十代平太郎の妻・小枝子(さえこ/1825-1891)も、国学や和歌に秀で、近代世田谷の生んだ女流歌人として知られています。

◎齋田家の茶業

 齋田家では、幕末、十代平太郎(1821-1875) が関西を視察し、生糸と並ぶ主要な輸出品であった茶の商品価値に注目し、私有の山林を開墾して茶の栽培を始め、また村民にも茶の栽培を勧めました。明治3年(1870)には伊勢から製茶師を招き、本格的に製茶を開始しましたが、明治8年(1875)、平太郎は志半ばで病没。その後、十一代又一郎(1858-1907)が父の後を継ぎ、熱心に製茶法を学んで技術改良に取り組み、齋田茶は内国勧業博覧会や万国博覧会で入賞するなど高い評価を受け、輸出も行いました。明治17年(1884)設立の荏原郡茶業組合では、又一郎が組合長に就任し、世田谷の茶業の発展に尽力しました。

◎財団および記念館の設立

 このように、齋田家は茶との関わりが深く、茶に関わる資料が多く残されていることから、これらの保存・公開、調査研究および研究助成等を行うことにより、わが国の茶文化の振興に寄与することを願い、平成6年(1994)、齋田茶文化振興財団が設立されました。
 また、平成9年(1997)、財団の展示施設として齋田記念館が開館しました。齋田記念館では、年間約二回の企画展のほか、図録や研究紀要等の出版物の発行、講演会やギャラリー・トーク等のイベントを開催しています。
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